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2006年4月29日 (土)

心の動き

「心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するがままにおもむく。
 その心はコントロールした方がよい。
 よくコントロールした心は、安らぎをもたらす。」

                       (『法句経』第35偈より)

 昔の私を知っている人は、時として短気でヒステリックな面が私にあることを知っている。死語になっているかもしれないが、マッチポンプという変な言葉がピッタリ、すぐに顔や態度に出ていたらしい。しかも相当な毒舌まで吐くので、当時の上司や部下や同僚、友人達にはイヤな奴だったに違いない。気に入っている者には優しい反面、それ以外には攻撃的ですらあった。
 自らを省みれば、その原因が、ちょっとした他人の言葉にも簡単にざわついて、コントロールできなくなる私自身の心にあったことが、今なら分かる。態度に出す前に、口に出す前に、ちょっと間をおいてみよう。考えてみるのではなく、時間を一瞬でもおくだけでいい。瞑想は、一瞬でもできるようだ。座禅をしなくても、自分を離れ、他人を離れて、客観視することができる。突風が過ぎ去った後には、意外と冷静になれる自分の心が見つかるはずだよ。



合掌 観学院称徳
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2006年4月28日 (金)

「心」 それは、幸福と楽しみをつくるもの

「あらゆるものは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
 ~影がその体から離れることがないように。」
                         (『法句経』第2偈より)


物事は全て、心がつくりだす。
とすれば何事にも囚われず、愛と慈しみの心をもって生活すれば
幸福で楽しい人生がおくれるのではないか、とお釈迦様は言う。
簡単そうで難しい命題である。
しかし、例え小さな親切をしても気持ちがよく、まさに幸福で楽しいと思う。
そんな経験は誰にでもあるだろう。

実は前回取り上げた、法句経第1偈の
汚れた心がつくりだす苦しみは、
荷車を引く牛に車輪がついてくるように、と喩えられている。
重苦しい。重荷を背負った苦悩の人生を暗示しているのである。

一方、清らかな心を保って生活するならば
影がその体から離れることがないように、軽やかに福楽を味わうことができる。
要は心の持ち方の問題なのだが
どうせ生きる人生ならば、そういう生き方がしたいよね。

合掌 観学院称徳
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2006年4月25日 (火)

「心」 それは、苦しみをつくるもの


「あらゆるものは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。」

                          (『法句経』第1偈より)


自分の心が悩みや苦しみを作り出し、自分自身を傷つける。
それは、心が汚れているからだ、とお釈迦様は言われた。
汚れた心で話したり行ったりするならば、
その言葉やその行いは、他人を騙したり欺いたり
苦しめたり傷つけたりすることになる。
そしてそれは、いつか自分に何倍も増して返ってくる。
一番大切なはずの自分を、一番苦しませ傷つけ、
つきまとってけっして離れることがない。これを無限地獄という。
地獄はあの世にあるのではなく、今この世にあるのである。

悩みや苦しみから逃れるためには、
心の汚れを落として、清浄な心になるように努めることしかない。

合掌 観学院称徳
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2006年4月24日 (月)

愛欲について

「ただ愛欲を思うばかりで、胸の中は迷いで一杯になっている。
愛欲に入り乱れて、居ても立っても心は安らかでない。
ひとのものを欲しがり、自分のものは惜しんで、
ただいたずらに自分のものにしたいと思うばかりである。
美しい婦女を見れば、賤しい眼で盗み見、
卑猥な行いをほしいままにするのである。
彼らは自分の妻を嫌って、
 密かに無分別に他の女性と関係を持ったり離れたりする。」

『大無量寿経』中村元訳(『仏典のことば』岩波書店より)


今も昔も同じといえば、人間の性(さが)だね。自分にも覚えが無くもない。
しかし最近は特に子供や若い女性が犠牲になる殺人事件が増えている。
不殺生、不邪淫は、仏教だけでなく世界宗教普遍の戒めだけど、
人類というのは馬鹿は死ななきゃ直らない状態が、
2500年以上も前から同じということでもある。

要は、人類はなどと一般化するのは間違いで、ひとり一人の心の問題である。
教育とは、その心を正しく育てることだ。これが忘れられているという因果応報が、
現代の荒んだ社会状況に反映されている。
占いブームも癒し系が流行るのも、心の空虚感の現れで、
仏教の空観とは大きな違いだが、
放っておくとまたまたインチキな新興宗教が現れるぞ!

心に隙間を作らないように、
特に無宗教というか信仰心のない人はご注意されるように。

合掌 観学院称徳
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2006年4月22日 (土)

《いのち》が光る


「仏とは、心が清らかなことであり、
 仏法とは、心の輝きであり、
 仏道とは、何にも遮られないで、《いのち》が透明に光ることだ。」



仏というは心清浄是なり。
法というは心光明これなり。
道というは処々無碍浄光是なり。

中国唐代末期の高僧 臨済義玄禅師(生年不詳~867年没)の言葉
      出典:『前衛仏教論~〈いのち〉の宗教への復活』 
          町田宗鳳著  筑摩書房 ちくま新書 2004年12月


「<いのち>が透明に光る」とは、何といい言葉だろう。
悪口雑言の毒舌で有名だった中国禅臨済宗の祖が、
思わず自然体で語った言葉のようですが、
仏教が死者のための宗教ではなく、
生きるための〈いのち〉の宗教であることを、
やさしく、しかし明確に言い切っているところが清々しく、
新米の仏弟子には力強い応援歌のように聞こえてしまう。
力まず自然体で頑張ろうね。                              


合掌 観学院称徳
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2006年4月21日 (金)

道を求めて

この宇宙の組み立てはどういうものであるか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも限りがあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるのか、この社会のどういう形が理想的なものであるか、これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることができないというならば、だれも道を修め得ないうちに死が来るであろう。

 (中略)

この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。

宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。

仏の教えは、説かなければならないことを知り、(略) すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。

だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、なにが自分にもっとも押し迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない。

(『仏教聖典』153頁、パーリ中部七-六三、箭喩経より 仏教伝道協会刊)

もちろんこれは、科学的な研究や哲学的な思索を否定するものではありません。
仏の道を修めていこうとしている者や、生老病死、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みの火に焼かれている者に対する言葉です。人はまず自分にとって何が一番問題であるのか、何が一番差し迫ったものなのかを、よくよく自覚してから、ひとつひとつ解決していくことが大切であると教えているのです。

あなたの悩み苦しみがなくなりますように!

合掌 観学院称徳
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2006年4月20日 (木)

五つの力で運気好転

信ずること。

努めること。

思慮深い心を保つこと。

心を統一すること。

明らかな智慧を持つこと。

この五つがさとりを得るための力である。

(『仏教聖典』171頁、パーリ増支部五-十六より  仏教伝道協会刊)

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この五つの力は、悟りに限らず功徳があるように思います。
仕事の成功でも、勉強でも、人間関係でも、何ごとでも、
この五つの力を発揮するような行いを続けることで
善い方向に振り向け、目標を達成することができるのです。


あなたに悟りの光が現れますように!

合掌 観学院称徳
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