2006年6月17日 (土)

人生をありのままに受けとめる


「この世における人々の命は、定まった相(すがた)なく、
 どれだけ生きられるか分からない。
 惨(いた)ましく、短くて、苦悩をともなっている。」

          (『スッタニパータ』第574偈)


人生には、苦が伴う。お釈迦様が最初に気付いた問題意識です。
「一切皆苦」~生を受け、生きているということは苦に充ち満ちている。病み、老い、そして死んでいく。「苦」とは、一時的な身体的苦痛を言うのではありません。もっと根源的なものです。老病死、どれも避けがたいものでありながら、いつまでも若いままでいたいと思う、健康でいたいと思う、生き続けたいと思う、それがかなわないから、何で生まれてきたんだ、生まれない方がよかったのにと、「生」そのものも苦と思う。そうなんです。苦の本体は、実は「思い」なのです。「諸行無常」~すべて形あるものは常ならず、移り変わる。生じたものは必ず滅びる~という自然の真理(摂理)とは異なる、人の希望的な思いです。しかもそれは命あるものにとって根源的な思いです。それは思い通りにはならないものであり、欲するようにならない、願うようにならない、避けられない、だからこそ「苦」なのです。

お釈迦様の説いた解決法は、四聖諦(四つの真実<ポイント>)。
その第一が、

「一切の形づくられたものは苦しみである」と正しい智慧をもって観ると、人は苦しみから遠く離れる」 (法句経第278偈)

1.苦諦=生きることは苦である(一切苦の認識)
ですが、それに続くのが、
2.集諦=なぜ苦が生まれてしまうのか(苦の原因探求)
3.滅諦=苦はどうすれば無くせるのか(苦滅尽の境地) 
4.道諦=苦を無くすには八つの道(方法)がある。(八正道)
なのです。本日はここまでにしておきましょう。



合掌 観学院称徳

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2006年5月17日 (水)

何故か楽しい!人を軽んじず敬う生き方

昔むかし、常不軽菩薩という一人の修行者がおりました。彼は、老若男女、貴賤を問わず、どのような人に対しても合掌して拝みました。人々はこれを見て彼を蔑み、悪口を言ったり、瓦や石を投げつけたり、杖で打つようなことまでしたのです。でも彼は少しも逆らわず、言いました。

「私はあなたがたを敬います。決して軽んじ、慢心するようなことはありません。なぜならあなたがたは、皆菩薩の道を行じてやがて仏になるひとであるからです」
                           『妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十』

常不軽菩薩は、法華経ではお釈迦様の過去世ということになっています。

ガンジーが合掌しながら人々を先導して歩いているニュースフィルムや映画のシーンを見たことがあります。今でもインドや、スリランカ・タイなど南アジアの上座部仏教(学校では小乗仏教と教わった)の国では、僧侶だけでなく、一般の人でも挨拶しながら合掌します。出会ったときも別れるときも合掌しています。ガンジーは、我執を克服し慈悲行を実践して非暴力主義を貫き、インド独立を勝ち取りました。

上座部仏教のお経『テーラガーター(長老偈)』には
「われは万人の友である。万人の仲間である。一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみの心を修めて、常に無傷害を楽しむ」とあり、
ガンジーも「非暴力=無傷害(アヒンサー)と不殺生は、謙譲の極限である」と言っています。謙譲は、慈悲=愛の心を持つことで自然と生まれてきます。かつて日本にも「謙譲の美徳」というものがあったはずですが、今では、私がオレがと我執に囚われて、他人を顧みず傷つけても平気です。最も親密であるはずの親子の間でも、親が子を、子が親を傷つけています。夫婦間でも友人間でも会社の仲間でも、近所や親戚同士でも、まして他人同士の集まる世間ではなおさらで、社会が殺伐としているのは当然かもしれません。

法華経によると、仏とは拝まれる存在であるだけでなく、拝む存在でもあるのです。何故なら「一切衆生悉有仏性」、誰にでも仏性(仏になる素質)があり、慈悲深く生きる菩薩道を歩めば仏になる存在だからです。殺伐とした世の中で、人に優しく慈悲の心をもって接する。せめて心の中で手を合わせて、人を軽んじず敬い、相手の立場で考えると、何故か心が落ち着いて、楽しく一日の生活を送ることができますよ。カリカリしても何の得もありませんからね。 

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2006年5月 9日 (火)

ダライラマの説く幸せになる生き方

お釈迦様は「縁起」を説きました。正確には「因縁生起」の略で、すべてのものや現象は、縁に因って生起するということです。ここから「善因善果、悪因悪果」とか「因果応報」とかいうことになり「善い行いは善い結果を、悪い行いは悪い結果を生むぞ、行いの結果に応じて必ず報いを受けるぞ!」ということなのです。これは、宿命というような運命決定論を認めない考え方です。
時間の経過で言えば、行いの後に報いが生まれる。過去があって今があるということになりますが、これは昨日の上に今日があるという、一人の人生の中でのことであって、占い師などが言う前世のことではありません。後世の仏教では前世と来世を方便として認めてしまいましたが、お釈迦様は否定されています。前世がどうだろうと、今が大切、今の行いが後の結果につながるということですから、勘違いしないように。まだ間に合いまっせ!
毎日お酒を飲み過ぎている仏弟子にあるまじき私は、きっといい死に方をしないというのが縁起の法則なのだ(癌?肝硬変?)トホホ。。。
そして「一切衆生 悉有仏性(仏性=ブッダになる素質・可能性)」誰でも仏になる素質を持っていて平等なんだということを前提として、ダライラマの説く幸せになる生き方をご紹介しましょう!

1. すべてのものを友と見なし(知母)
2. 彼らの優しさを思い(念恩)
3. その優しさには優しさをもって応え
4. 愛情を起こし(慈心)
5. 哀れみの情を起こし(悲心)
6. 普遍的な責任を受ける決心を示し(増上意業)
7. 悟りを得るための利他の心を起こす(発菩提心)

一段階ごとに心を進化させていくと、悩みのない幸せな生き方ができますよ、というのです。徹底することはたいへん難しいことですが、気持ちの持ち方をちょっと変えてみるだけなら不可能ではありませんよ。不幸な人は不幸の種を拾って育てていきます。周りまで不幸なオーラを発散して、不幸の連鎖が生まれます。恐ろしいことです。どうせなら幸福の種を拾って育てて、周りまで幸福のオーラを発散して、幸福の輪を広げましょう。いい友人ができて、いい情報をもたらしてくれるように必ずなります。情けは人のためならず。

Be merciful others !  他者に慈悲深くあれ!  

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2006年5月 3日 (水)

人は自ら為したことによって価値ある者となる

インドでは21世紀の現在でも生まれながらの身分制であるカースト制度が生きています。お釈迦様は、この身分制の頂点にあって当時インドの精神世界・宗教を支配していたバラモン達と2500年も昔にしばしば議論しています。

「あなた達は今日までバラモンの教えを奉じてきた。あなた達は自分達を梵天(ブラフマン=宇宙の創造神)に由来する者としている。この高貴な系統を引く故、他の人々よりも優れていると言う。人間は生まれによって価値が決められていると言う。だが、私はあなた達に言おう。人は自ら為したことによって価値ある者となるのであって、生まれによって価値ある者となるのではない。人は一人の人間として自ら為したことによって、世界の偉大な智に値する者となるのである。・・・・・バラモンと呼ばれるのが好ましいのではない。あなた達は、あなた達自らの力によって清浄な者となるのだ」

「人は自ら為したことによって価値ある者となる」

お釈迦様が明らかにした縁起の法則によれば、これは当然のことです。人は生まれた身分によって価値が決まることはない。「人は一人の人間として自ら為したことによって」価値が決まるのだということです。身分だけではありません。前世の行いによって宿命づけられることはなく、生まれながらにして天才や秀才など人の能力の程度が決まっているわけでもありません。愛される人や愛されない人がいるわけでもありません。すべては自らの日々の行い、努力によって決まるのです。

そしてこれには手遅れということはありません。いつ気が付いたとしても、気付くことと実行することが大切なのです。善因善果、悪因悪果。因果応報ですよ。どうせなら善を行い幸せになりましょうね。幸福になりたい、成功したい、愛されたい、尊敬されたい、このような欲なら神仏も可愛いもんだと許してくれますが、そうなるためには、そうするのは「一人の人間として自ら為したことによって」なのです。唯一の条件は、独りよがりや自分勝手ではなく、愛と慈悲の心で相手や他人と接することですよ。では、また! 

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2006年5月 2日 (火)

心をコントロールする生き方の基本

心をコントロールする生き方の基本

1.すぐに自分の心を観る

落ち込んだとき、悩んでいるとき、悲しいとき、苦しいとき、腹が立ったとき、怒っているとき、ちょっと目を閉じて自分自身を、自分の心を、見つめてみましょう。「今、わたしは悩んでいる」「今、わたしは苦しんでいる」「今、わたしは怒っている」と、心の中で3回言うのです。自分を客観視できるあなたを感じることができ、少し楽になった自分を発見するでしょう。


2.呼吸を整える

まず息を吐きます。古い空気を最後の最後まで吐ききります。そして新しい空気を吸うのです。瞑想の基本は呼吸法です。呼吸に合わせて「ゆっくりと深く古い空気を吐ききり、胸一杯に新しい空気を吸い込む」と、言葉を心で念じながら。

慣れてきたら、有名な般若心経の真言「ガーティ、ガーティ、パーラガーティ、パーラサンガーティ、ボーディ・スバーハッ」を暗記して、途中で息継ぎをせず小さな声に出しながら息を吐くと、ちょうど肺の中の空気がなくなります。最後のスバーハッのハッで最後の最後まで完全に吐き切って、胸を空っぽにします。そう「空」にするのです。そうすることで初めて新しい気が、あなたの体に入り込み充満することができるのです。真言の意味は考える必要はありません。そのうち教えてあげましょう。


3.歩くときは、歩くことに徹する

右足と左足の動きに意識を集中し、足の動きを感じながら「右、左、右、左…..」と歩きます。歩くことを味わえば脳も刺激され、気持ちも良くなるでしょう。別のことは考えてはいけません。歩行者専用道、公園など安全な場所でやりましょう。
慣れてきたら、2の呼吸法と一緒にやるようにすれば効果が上がり、頭も体もスッキリしますよ。


4.体の動きを確認する

中国の太極拳のようなつもりで、ゆっくりと、頭のてっぺんから腕、手、指先や、足のもも、ひざ、足の裏や指先まで、意識を集中し、ひとつ一つ確認しながら動かします。「今、この瞬間、生きている」ということを感じながら、他のことを考えてはだめですよ。

慣れてくると、掃除しながらでも、お皿を洗いながらでも、歩きながらでも、できるようになるでしょう。偉い禅僧が「座っているだけが座禅ではない。食事をしていても、歩いていても、掃除をしていても、すべてが禅である」と言っていたのを思い出しました。生きているのは今この瞬間だけ。ただそのことだけに集中して、今やることに専心すれば「ああすればよかった、ああなりたい、腹が立つ、あいつが気に入らない」などという、煩う心を捨てておくことができるようになりますよ。

では、よい連休を。あなたが幸せでありますように!  合掌 観学院称徳

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2006年4月29日 (土)

心の動き

「心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するがままにおもむく。
 その心はコントロールした方がよい。
 よくコントロールした心は、安らぎをもたらす。」

                       (『法句経』第35偈より)

 昔の私を知っている人は、時として短気でヒステリックな面が私にあることを知っている。死語になっているかもしれないが、マッチポンプという変な言葉がピッタリ、すぐに顔や態度に出ていたらしい。しかも相当な毒舌まで吐くので、当時の上司や部下や同僚、友人達にはイヤな奴だったに違いない。気に入っている者には優しい反面、それ以外には攻撃的ですらあった。
 自らを省みれば、その原因が、ちょっとした他人の言葉にも簡単にざわついて、コントロールできなくなる私自身の心にあったことが、今なら分かる。態度に出す前に、口に出す前に、ちょっと間をおいてみよう。考えてみるのではなく、時間を一瞬でもおくだけでいい。瞑想は、一瞬でもできるようだ。座禅をしなくても、自分を離れ、他人を離れて、客観視することができる。突風が過ぎ去った後には、意外と冷静になれる自分の心が見つかるはずだよ。



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2006年4月28日 (金)

「心」 それは、幸福と楽しみをつくるもの

「あらゆるものは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。
 ~影がその体から離れることがないように。」
                         (『法句経』第2偈より)


物事は全て、心がつくりだす。
とすれば何事にも囚われず、愛と慈しみの心をもって生活すれば
幸福で楽しい人生がおくれるのではないか、とお釈迦様は言う。
簡単そうで難しい命題である。
しかし、例え小さな親切をしても気持ちがよく、まさに幸福で楽しいと思う。
そんな経験は誰にでもあるだろう。

実は前回取り上げた、法句経第1偈の
汚れた心がつくりだす苦しみは、
荷車を引く牛に車輪がついてくるように、と喩えられている。
重苦しい。重荷を背負った苦悩の人生を暗示しているのである。

一方、清らかな心を保って生活するならば
影がその体から離れることがないように、軽やかに福楽を味わうことができる。
要は心の持ち方の問題なのだが
どうせ生きる人生ならば、そういう生き方がしたいよね。

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2006年4月25日 (火)

「心」 それは、苦しみをつくるもの


「あらゆるものは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。」

                          (『法句経』第1偈より)


自分の心が悩みや苦しみを作り出し、自分自身を傷つける。
それは、心が汚れているからだ、とお釈迦様は言われた。
汚れた心で話したり行ったりするならば、
その言葉やその行いは、他人を騙したり欺いたり
苦しめたり傷つけたりすることになる。
そしてそれは、いつか自分に何倍も増して返ってくる。
一番大切なはずの自分を、一番苦しませ傷つけ、
つきまとってけっして離れることがない。これを無限地獄という。
地獄はあの世にあるのではなく、今この世にあるのである。

悩みや苦しみから逃れるためには、
心の汚れを落として、清浄な心になるように努めることしかない。

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2006年4月24日 (月)

愛欲について

「ただ愛欲を思うばかりで、胸の中は迷いで一杯になっている。
愛欲に入り乱れて、居ても立っても心は安らかでない。
ひとのものを欲しがり、自分のものは惜しんで、
ただいたずらに自分のものにしたいと思うばかりである。
美しい婦女を見れば、賤しい眼で盗み見、
卑猥な行いをほしいままにするのである。
彼らは自分の妻を嫌って、
 密かに無分別に他の女性と関係を持ったり離れたりする。」

『大無量寿経』中村元訳(『仏典のことば』岩波書店より)


今も昔も同じといえば、人間の性(さが)だね。自分にも覚えが無くもない。
しかし最近は特に子供や若い女性が犠牲になる殺人事件が増えている。
不殺生、不邪淫は、仏教だけでなく世界宗教普遍の戒めだけど、
人類というのは馬鹿は死ななきゃ直らない状態が、
2500年以上も前から同じということでもある。

要は、人類はなどと一般化するのは間違いで、ひとり一人の心の問題である。
教育とは、その心を正しく育てることだ。これが忘れられているという因果応報が、
現代の荒んだ社会状況に反映されている。
占いブームも癒し系が流行るのも、心の空虚感の現れで、
仏教の空観とは大きな違いだが、
放っておくとまたまたインチキな新興宗教が現れるぞ!

心に隙間を作らないように、
特に無宗教というか信仰心のない人はご注意されるように。

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2006年4月22日 (土)

《いのち》が光る


「仏とは、心が清らかなことであり、
 仏法とは、心の輝きであり、
 仏道とは、何にも遮られないで、《いのち》が透明に光ることだ。」



仏というは心清浄是なり。
法というは心光明これなり。
道というは処々無碍浄光是なり。

中国唐代末期の高僧 臨済義玄禅師(生年不詳~867年没)の言葉
      出典:『前衛仏教論~〈いのち〉の宗教への復活』 
          町田宗鳳著  筑摩書房 ちくま新書 2004年12月


「<いのち>が透明に光る」とは、何といい言葉だろう。
悪口雑言の毒舌で有名だった中国禅臨済宗の祖が、
思わず自然体で語った言葉のようですが、
仏教が死者のための宗教ではなく、
生きるための〈いのち〉の宗教であることを、
やさしく、しかし明確に言い切っているところが清々しく、
新米の仏弟子には力強い応援歌のように聞こえてしまう。
力まず自然体で頑張ろうね。                              


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